難攻不落の城は秀吉に降伏後、なぜつぶされなかったのか?

「戦国一の難攻不落の城は?」と聞かれて思い浮かぶのが小田原城。

「越後の龍」上杉謙信、「甲斐の虎」武田信玄が攻め込んでも落ちなかった城であり、城下町を含めてぐるりと堀で囲んだ総延長約9kmの惣構によって、城どころか城下町に近寄ることすらできない「難攻不落の城」でした。

このすごい城も残念ながら、「天正18年(1590年)に豊臣秀吉により石垣山一夜城の築城をはじめとする秀吉の小田原攻めにより北条氏は滅亡した」というわけなのですが、通常の城は陥落とともに焼き討ちにあったり、取り潰されたりして使えない状態にさせられることが常なのですが、小田原城はそのままの状態で残され、新しい城主大久保氏を迎えることになりました。

なぜ小田原城はつぶされなかったのか?

小田原市の観光ガイドさんの話によりますと、
「築城技術、堀の技術、水の引き込み方等の技術がとても高度であまりにもよくできていたお城なので、終戦後にお城を囲んでいた大名がみんなで視察して、技術を学んでいったためにつぶされずに残った」そうです。その後、江戸時代にかけて築かれたお城には小田原城で学んだ技術が採用されるようになったそうです。

要害性・防御力のためのしかけ、籠城戦に大切な水の供給、食料の確保等、戦国時代の技術の粋が集まっていたのでしょうね。

ということで小田原城は「難攻不落の城」であるとともに、戦国時代における「はじめての行政視察スポット」であったというお話でした。